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小さな国語塾のつぶやき

「言葉は国の手形」

「言葉は国の手形(ことばはくにのてがた)」という諺がある。意味は「言葉のなまりを聞けばその人の生まれ育った国(出身地)がわかる」。(※「手形」は往来手形のことで、江戸時代の旅行者が携行しなければならなかった身分証明書のこと。)この手形は大切にしたいものだとつくづく思う。人によっては自分の出身地の言葉を極力使わないようにしたり、「郷に入っては郷に従え」とばかりにその土地の言葉を必死で話そうとする。新天地に馴染もうという心がけは素晴らしいと思うけれど「言葉のなまり」「方言」は本人の一部、アイデンティティー(個性)だと思っている自分自身は一度も「なまり」を変えようとは思ったことがない。以前にも書いたように新天地には新天地の「しきたり」「慣習」があるのでよほどのことがなければそれに従うほうがいいとは思うけれど、人格形成や人生観の基盤となっている故郷の生活や文化などを内面から排除する必要は全くなく、むしろ大切にすべきだと感じている。そのような考え、自分は自分という態度ゆえからか「得」することはあっても「損」をしたことがない。今日、久しぶりに自宅近くのクリニックに検診に行ったところ・・・。ドクターが陰陽師の生まれ故郷、出身大学などなどをすべて覚えて下さっており思い切り盛り上がった(時間にするとせいぜい1分ぐらいか)。9年前(北海道に引っ越してきた直後)に初めてクリニックに行ったときに、イントネーションから出身地を言い当てられたのだ。ちなみにドクターと同県人。9年前に伝えた情報を完璧に覚えて下さってたことには思わず感動した。いくらドクターが頭がいいとはいっても数多い患者の中、しかも年に1,2度ぐらいしか顔を合わさない患者・・・。「同郷人」「同県人」ということからインパクトが強く、互いに「故郷から離れたところで必死で頑張っている」といった想いもあるのだろう。生まれ育った故郷に対しての未練やこだわりは全くなく、むしろほかの地域こそ「住めば都」だけれど、それでも自分の中に流れている「国の手形」には愛着があり、それをこれからも大切にしたいと思う。

2018/03/19 23:30

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「後悔先に立たず」

「後悔先に立たず(こうかいさきにたたず)」という諺がある。意味は「もう終わってしまったことをあれこれ悔やんでも、どうにもならない」、また「もう終わってしまったものをあれこれ考えても仕方がないから、これから先のことを考えよう」だ。この時期になるといつもあちこちで「もっとがんばればよかった」「あんなこと言わなければよかった」「ちゃんと準備しておけばよかった」という声を聴くし、自分自身も数えきれないぐらいに思うことがある。正直言って自分自身の失敗の数々はブラックホールに封印したい気分(している?)。でも人生半分を生きてきた今は次のように思うのだ。「失敗しない人っていないよなあ。いたらお目にかかりたい」「この(あの)失敗があったからこそ、今がある!と将来思えるように頑張ろう」と。さらには言い訳がましいかもしれないけれど過去の自分を振り返ってみるといとおしく感じることもあるのだ。「今から思うと失敗だったけれども、その当時は自分なりに精いっぱい頑張ってたよなああ。間違った方向に?!のこともあったけれど・・・。それが今気づけたから、あの時の自分に感謝しよう」と。とはいえ、失敗した瞬間や直後は、しばらくはどうしても時間が止まってしまい動けなくなるのも世の常。しばらくは止まった状態で次へのエネルギーを蓄えることが大切。そして次につなげればいいのかなあと心底思う。「後悔」と言えば次のようなこともよく聞く。「何かをやったときの後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」と。これはその通りだと思う。時と場合によって目の前にある「やるべきこと」が明らかに「火中に飛び込む」ことになることかもしれない。でも人生経験が長い人や人の身の上相談などを生業とする職業の人は「ああ、このままだと失敗する」と分かっていながらも敢えて身近な人やクライアントには「ぜひ挑戦したほうがいい」と背中を押すそうだ。☜実際にカウンセラーの方から伺った。それを最初聞いた時には「ひどい!何てことをアドヴァイス?するの?」と思ったけれど、今なら分かる。先日書いたように「若い時の苦労は買ってでもせよ」に通じるのだろ。自省をこめて。

2018/03/18 14:56

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逢坂の関

最近、新中一年生を対象に古文の先取り勉強をしている。まずは「読み方」、ハ行をワ行に変換して読むことは皆すでに知っているけれどそれ以外の決まりについては当然、初めてなので一覧表にしたプリントを渡し、百人一首を何枚か準備して実際に読む練習をしている。例えば母音で「アウ」→「オウ」とハ行を組み合わせたものとしては次のような一首を用いている。「逢坂(あふさか)」→「アフ」→「アウ」→「オウ」のように。

 

(例)これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関
           蝉丸(10番) 『後撰集』雑一・1089

 

(現代語訳)これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。※逢坂の関は京都の周囲に三箇所あった関所のうちのひとつで現在の京都府と滋賀県の間あたりにあった。3月は別れの季節、卒業のシーズン。4月からは別々の学校に進学していく学生達、新たに社会人になる若者達、会社の配置転換も多い季節。とはいえ、今は昔と違い物理的には遠くに離れてもネットやSNS、電話などなどでいつでもどこでもつながることができる。昔は一度別れたらもしかすると「今生の別れ」ということが少なくない。それゆえ昔の歌人たちは仏教の「会者定離(えしゃじょうり)」(意味)「この世で出会った者には、必ず別れる時がくる運命にあること。この世や人生は無常であることのたとえ」をこの歌に感じ、無常感をここに見たのだ。逢坂の関は出会いと別れを象徴する、人生そのものを暗示している。今のご時世、物理的距離による「別れ」は昔ほどには「無常観」ともいえる出来事ではなくなりつつあり、逆にいうと今は「出会い」と「別れ」の両方の機会が格段に増えているとも言える。つまりは簡単に出会うことができると同時に簡単に別れることができる、その中で「これは!」と思える出会いは大切にしていきたいなあと思う今日この頃。来年度はどんな素敵な出会いがあるか?と今からワクワクしている。

2018/03/17 12:15

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「卒業」「何卒(なにとぞ)」

十勝地方では昨日は、中学校の卒業式、今日は県立高校の合格発表の日だ。去年は受験生全員が推薦入試で卒業前に進路が決まっていたのだけれど、今年は一般受験生が大半。何人か連絡をもらったところ・・・残念な結果の生徒も。毎年のことだけれど、この時期は本当にドキドキし中学3年生や高校3年生に対して「卒業おめでとう」という気持ちと「何卒(なにとぞ)いい結果を」という二つの気持ちでいっぱいだ。残念な結果を聞いた時にはなんと声をかけるかを毎回考え込んでしまう。幸いなのが?!大学の前期試験がダメでした・・・という報告をもらった時に自分も同じ経験をしているので心から「(周りは進路決まってるのに自分だけ決まってなくてどうしようという不安な気持ち)分るわ~」と心底言えることぐらいか。若い子は純粋だからこそ、大人の言動を意外とよく観察しキャッチするもの。こちらが表面だけで言っているのか、本心で言っているのかを一瞬にして見破られるので先のような場合は短い言葉しかかけてなくても生徒の顔がパッと一瞬明るくなるのが救い。職業柄ほぼ同時期に毎年「卒業おめでとう」と「何卒(なにとぞ)いい結果、合格を」と願うわけだが「何卒(なにとぞ)」には「卒業」と言った意味があるのか?と思って調べてみたところ、実は「卒(とぞ)」は単なる当て字にすぎないらしい。なーんだと肩透かしを食らったような気分だけれど、それにしてもさすがは日本人!素晴らしい「当て字」を見つけるなあとも思う。少なくとも自分自身に関して言うと今の仕事をする前から常に「卒業」と「何卒(なにとぞ)」がセットだった。ん十年前の中学校・高校の卒業式では「公立試験を控えている(当時は卒業式の翌日に入試だった。)」「大学の発表待ち」ゆえに「何卒(なにとぞ)受かりますように」という気持ちでいっぱい、大学の卒業式こそは無事に?!と思いきや…当時は超氷河期で残念ながら先が決まっていない状態での「卒業」だった。幸いにして卒業後の、しかも3月31日に第一希望からの就職先から打診をいただき(急遽空きができたとのこと)で奇跡の大逆転を果たしたけれど。気休めかもしれないけれど、若いうちの失敗は後か取り戻せる、しかも腐らずに地道に努力すれば不思議と道が開ける(さすがに「採用ゼロ」のはずだったところから突然に打診してもらえるほどの奇跡は稀だろうけれど)と思っている。

2018/03/16 15:28

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「オセロ」と「リバーシ」

先週から木曜の授業の後に少しだけ(?)頭の体操を楽しんでいる中学生たち。ことの発端は、先週に某生徒が「先生、オセロありますか?」と突然に言い出し、「オセロではないけれどリバーシならあるよ・・・」と取り出して生徒と勝負したのが始まり。今日は3人の生徒たちが順番に勝負をし、待ち時間にはこちらが課題として出した「漢字小問」をするという具合で楽しんだ。さて、自分自身が「オセロはないけれどリバーシはあるよ・・・」なんて言いながら「はて?この二つのゲームの違いはいったい何?」と思い、早速調べてみたところ次のように書いてあった。

【オセロとリバーシには、本来は盤の色やコマの色の、初期配置の自由さに違いがあります。ですが、2つとも基本的なルールが大体同じで「オセロ」が商標登録されていて「オセロ」と名前を付けてゲームを売り出すことができないという事情があって、オセロとリバーシは同じゲームである、とされている場合が多いです。(ネット「ワンダートレンド」より抜粋)】

 

ネットには詳しく解説があり、よく分かったけれど結論を言うと「ほぼ同じ」ゲームだとか。謎が解けたことと「おおっ、言い換え!まるで国語の問題で棒線の言い換えを5文字で抜き出せと同じ~」と一人でニヤニヤしていた。さて、ゲームをしている途中に突然S君がゲーム盤を90度回転させた!相手のM君は「見る方向が違ったら変な感じがして、さっきまで考えていた手が分からなくなってしまった~」と叫ぶ。それに対してS君は「そうそう、違った角度から見るということは大切だと思って向きを変えたんだよ(本当は相手に勝たせたくないための戦略)。」とのこと。本人は負けたくないための戦略として姑息な(?)手を使ったわけだけれど意外と核心をついていると思う。物事は見方を変えると全く別のものが浮かび上がってくる・・・中学生の勉強においては特にそれが顕著なのが数学の相似、美術のだまし絵など。面倒な(?)勉強や一見すると「単なる遊び」を通して実は多角的視点を養っているんだよなああ~と気づかせてもらった出来事だった。ちなみにオセロやリバーシは最後の最後まで勝負がどう転がるか分からないのも楽しい要素・・・まるで人生のよう。自分の人生、最後に大逆転勝利!を期待しつつ今日からもまた一歩一歩前進あるのみ。

2018/03/15 22:57

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「無い袖は振れぬ」けれど・・・

「無い袖は振れぬ(ないそではふれぬ)」という慣用句がある。意味は「袖の無い着物では、どうしたって袖を振ることはできないということから、持ち合わせの無いものはどうすることもできないということ。着物の袖は財布を入れておくところなので、袖が無いのは金が無いということで、金銭的な援助を申し込まれたときや返済を迫られた場合などに使う。」(故事ことわざ辞典より)。この慣用句の使い方には注意が必要で「金銭ではなく、意見や考えを出す場合」に使うことは避けるべきなのだ。誤用例としては「みんなで集まって解決策を考えろと言われたが、この状況でいい考えなど浮かぶはずがない。無い袖は振れないというものだ」。確かに「お金」という物質に関しては「無いものはない」、働いて賃金を得るとしてもまずは「働く」という行為が必要で数分後にお金が空中から降ってくるわけではない。けれど、意見・知識・考えに関してはどうしても自分一人では行き詰ってしまったとしても「本を読む」「人に聞く」「調べる(ネットなども含む)」という行動を起こせばうまくいくと数分後には解決しうるのだ。ふとそんなことを考えているとブロ友でもあり同業者でもある、尊敬するひさぺー 先生のブログ記事が目に飛び込んできた。ひさぺー先生の生徒達も十勝地方の中学生同様に夏休みには「税の作文」を書くという課題があるらしい。場所は違えども事情はどこも同じで、中学生たちは「書けない」「どうやって書けばいいか」と頭を悩ましている様子。それに対して、ひさぺー先生はご自分が「税金」については色々と「経験」をなさっているので「いくらでも書ける」とのこと。ウンウン、確かに。中学生にとって「税金」、しかもそれにまつわる「作文」と言われても「実感」「経験」が少ないので難しいのは当然だろう。だからこそ身近な人に聞く、調べる、調べた内容に自分の体験を照らし合わせて・・・という作業が必要になる。ちなみに本年度の生徒たちには、去年に十勝地方を襲った4度にわたる台風被害の復興、復興には税金が大きく関係しているというヒントを出したところ、見事入賞。塾生以外の入賞作品も「台風の復興」「復興支援に携わった経験」などなどといった実体験と「税金」をうまくつなげている物が多かった。「ない袖は振れぬ」けれど、知識・意見・考えなどは工夫次第でいくらでも自分のものにすることができる!面倒で大変な課題の一つである「作文」・・・、長い目で見た時にそれらを書くための工夫や訓練は必ず自分の身になると思う。

2018/03/14 16:19

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「潮時」

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(にぎたつに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな)という歌が万葉集に収められている。額田王の作と言われており、意味は「熟田津(現在の愛媛県松山市は道後温泉付近の海岸線)で船出をしようと月を待っていると潮流も良い具合になった。今こそ漕ぎ出そう」である。昔は船旅は命がけ、船出のタイミングを間違えるとたちまち遭難してしまう・・・。更級日記(作者は菅原孝標の女)にも、船旅のタイミングがいかに大切かの記載がある。「それほどまでにひどい嵐であったのか。話を聞いて私はあらためて背筋の凍るような思いがした。もしあの夜に船頭に従わずに浦を目指したりしていたなら、まぎれもなくこの船の者は皆、石津の波に飲まれてその命を消してしまっていただろう。私は感慨深い思いで
  荒るる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば
 (荒れ狂う海に嵐の風よりも先に舟を出していたなら
  石津の浪となってこの命も消えてしまっていたのだろうか)
と歌を詠んだ。これも神仏の尊いお力のおかげであろう。」(現代語訳)。さて、潮の満ち引きのタイミングは船出に限らず、海の恵みを得るためには絶対に知っておかなければならない。たとえば、満潮のときに潮干狩り(しおひがり)はできず、漁師は潮の流れや潮の満ち引きを考えて漁に出るタイミングをつかむ必要がある。潮のことを知っていないと大漁のチャンスを得ることはもちろん、漁を終わりにするタイミングもつかめず無駄な作業になってしまう、つまり「潮時」を知っていないと漁で生計を立てることができなかった。そこから転じて、何かを始めたり終えたりする時の好いタイミング、チャンス(好機)のことを「潮時(しおどき)」と言うようになった。「潮時」は決断するチャンス到来のときにこそ使う言葉!だが、最近は「物事を辞めるタイミング」として誤用されていることが多い。うーん、確かに何かを辞めて新しいことをするチャンスというとらえ方もありか?!いつも書いているように誤用例がまかり通ってしまうと正しい意味で使っている側が「間違っている」と非難されてしまうことも起こりうるので、本来の意味を知ったうえで時と場合を選んで使うことが大切。

2018/03/13 03:21

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「○○臭い(くさい)」

日本語は本当に難しい!とつくづく感じる。今更何を?と思われるかもしれないけれど・・・・。先ほど車内でラジオを何気に聞いていたところ、某高校生が春の高校野球に向けての抱負綴っており、それをアナウンサーが音読していた。その中に「泥臭い練習を重ねて。。。」と言う表現があり、思わず考え込んだ。そもそもが「泥臭い」と言う言葉の意味は「野暮ったい、みっともない、あか抜けていない」なのだが、高校生が「泥臭い」という言葉を使うと「野暮ったい、みっともない、あか抜けていない」という悪い意味よりも「実直に、コツコツと」といういい意味のニュアンスに代わるよなああああと思いながらラジオを聞いたのだ。誰がどんな場面でその言葉を使うかによって意味が全く違ってくる、しかも時代と共に意味が変化していくのが日本語の特徴だということを改めて実感した次第。「泥臭い」と似たような意味で「鈍くさい」という言葉があるけれど、こちらは「実直に、コツコツと」という意味ではあまり使わないような気がするのは自分だけか?そういえば「○○臭い(くさい)」という言葉が日本語には数多くある。「辛気臭い」「青臭い」「面倒臭い」「胡散臭い」「水臭い」などなど。。。ちなみにこれらを見ると分かるように「臭い(くさい)」は「匂いがする」と言う意味よりも「~らしい、~ぽい」という意味で使われている。例えば「水臭い」は「よそよそしい」「他人行儀だ」という意味で、語源は「お料理では水分が多くて味が薄い、水っぽいとなる。水分が多いと味が薄く味気なくなる。」このことを比喩的に「愛情が薄い、人情が薄い」と、人に対して使ったのが「水臭い」という表現となる。実は以前は「水臭い」☞「水が腐って嫌なにおいを発する」、「泥臭い」☞「泥のようなにおいがする」☞「泥まみれになって、においが体につきながらも頑張る様子」だと勝手に想像していた。刑事物語や推理小説において刑事や探偵が「うーん、何かにおう。」というのも勿論、実際に何かの香りがするわけではなく「胡散臭い、怪しい」という意味だということは分かってはいたけれど「臭い(くさい)」が「~らしい、ぽい」と言う意味があること、正しい語源などを知ると「なるほど、この使い方は間違っていないんだ~」と腑に落ちることが多い。日本語は難しいけれど、一つのことを知ると派生的に多くの言葉についても知ったり納得することが多く、やはり楽しいなあと思う。さて、最近の自分は。。。。「面倒臭い」と言う気持ちがフツフツとわいている状態だけれど高校男児を見習って「泥臭く」(実直に)」目の前のことをコツコツとこなそうっと。

2018/03/12 13:29

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「目玉」

先日、自分が某方から「大目玉を食らった」とブログで書いたけれど・・・新聞の折り込み広告に記載されている「目玉商品」と言う言葉を見て「目玉って…いったいどういう意味?」と思い立って調べてみた。意味は次のようなもの 目の玉。眼球。 1に似た形のもの。 (「お目玉」「大目玉」の形で)目上の人からしかられること。「お目玉を食う」 《客が目玉をむいて驚く意から》多くの売り物の中で特に注目される物。客を引き寄せるための特売品。また一般に、多くの中で中心となる物事。」(goo辞書より引用)。うーん、よく分かったような分からないような・・・なので色々と調べてみると「人を叱るときに大きく目を見開く、食らうとは好ましくないことを受け取る☞叱られることを大目玉を食らう」(由来語源辞典より)とのこと。つまり「怒るとき」「(安売りなどを見て)びっくりするとき」に目を大きく見開くことから「大目玉を食らう」「目玉商品」という言葉が出来たらしい。そういえば今の若い子たちは知らないかもしれないが、水木しげる原作の漫画「ゲゲゲの鬼太郎」には「目玉おやじ」が登場する。「目玉おやじ」とは鬼太郎の父親で目玉に体がついたユーモラスな外見。非常に博学で知識面で鬼太郎たちをサポートする。身長9.9センチ、体重33.25グラム。ちなみに自分自身が高校生の頃に「目玉おやじ」の実物大のマスコット(ブローチになっている)が発売になりシャレで購入。冬場には学校指定のコートを着て通学、コートは靴箱が設置されている壁のフックに適当に引っ掛けることになっており、帰宅時にはパッと見ただけではどれが自分のコートかが分からなかった。コートの内側には名前が刺繍されているのだけれど一つ一つ手に取って確認するのが面倒なのでコートの襟に「目玉おやじ」のブローチをつけていた。流石に目立ち、毎日迷わず自分のコートを手に取ってさっさと帰宅することができたというのは今となっては懐かしい思い出。「目玉おやじ」マスコットをカワイイ~~~♡と思って本人はコートに付けていたのだけれど、当然というべきか周囲からの反応は様々で・・・。「気持ち悪い」「怖い」という声もちらほら、何も言わない(言えない)友人たちもおそらくパッと見た瞬間にびっくりして「目玉」を飛び出していたんだろなあと思う。思えば、あの頃から自分は「変わり者」「異端児」だったと妙に納得(笑)。それゆえに先日某方から「大目玉を食らった」わけで・・・今後はいい意味で「目玉を飛び出す」ようファイト。

 

 

$水蓮流ことだま開運術目玉おやじ

2018/03/11 17:14

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「若い時の苦労は買ってでもしろ」

「若い時の苦労は買ってでもせよ」(意味)「若い時にする苦労は必ず貴重な経験となって将来役立つものだから、求めてでもするほうがよいということ」という慣用句は誰しもが、何十回、何百回と目にしたり耳にしたことがあるだろう。正直言って若い頃はこの慣用句が苦手だった・・・というよりも、はっきり言って嫌いだった。「なぜわざわざ苦労しなくてはならないわけ?絶対に嫌だ。将来苦労しないように今頑張る!将来は○○して△△になって・・・そのためには今はこうしてああして。。。」と必死だった。皮肉なことに今振り返ってみると若い頃のあの「頑張り」こそがいわゆる「苦労」だったんだなあと笑える。当時は「苦労したくないから・・・」と必死でもがいていたのだけれど、実はそれ自体が「苦労」だったというわけ。若かりし頃の無知って恐ろしいやら自ら振り返ってみると「若いっていいなああ」とほほえましい。年度末と言うこともあって最近様々な方々から質問や相談を受けることが多く、先日「このまま行動を起こさなければとりあえずはパラダイス・・・ただし数年後の可能性は狭まり将来の未来像がほぼ決まる。でも、今行動を起こせば苦労が待っている、でもそれを乗り越えた時には可能性が広がる・・・、さあどっちをとる?」と某方から聞かれた。迷わず「目の前の苦労をとります。若いうちの苦労はいくらでもやり直しがききます。とりあえず目先は楽でも、将来・・・・10年後、20年後、30年後に大変な出来事があったときのダメージの方が怖い。むろん何の苦労もなくその時に置かれた状況に満足して、ぜいたくを望まず、自分や自分の身近な状況以外を知らずにそれなりに楽しかった~と人生を終えるかもしれないしそれはそれでOK。それでも一度も苦労しない人生はまず考えられないです。となった場合にやり直しがきく、パワーもある若いうちに目の前の苦労をとります!!」と気づく熱弁していた。思わず後からびっくりした。あんなにも若い頃は「若い時の苦労は買ってでもせよ」が嫌いだったのに・・・と。長く生きたおかげでようやくようやく慣用句の本質がストンと腑に落ちた瞬間だった。ああ、やはり侮ることなかれ昔からの諺や慣用句。

2018/03/10 14:53

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