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小さな国語塾のつぶやき

「竜宮城と七夕さま」(浅田次郎著)

今、目の前に「竜宮城と七夕さま」(浅田次郎著 2017.6.19初版)という本がある。題名に惹かれて図書館から借りたのだが・・・長編小説かと思いきやエッセイ集だった。一瞬落胆しかけたけれど、表題の「竜宮城と七夕さま」のエッセイが面白い!何がそんなに面白いか?一言で言うと作者の目の付け所!文中に「乙姫様のごちそうとは、いったいどのような献立であったのだろう。(中略)海の世界を宰領する乙姫様の御殿に、魚料理はあるはずもなく・・・」(☜確かに…笑)。「では、魚がだめなら肉かと思いもするが、昔は肉食が戒められていたのだし、海の底に牛や豚がいるとも思えぬ。」とあり、もうここまでくると爆笑。で、自分なりに考えてみたところ、おそらく「この世のものではない不思議な?食べ物」をごちそうとして出されたのではないか?という結論に。とはいえ、あくまでもおとぎ話なので正解はないのだが。正直言って自分としては浦島太郎伝説に対して「折角、善行を尽くしながらたったの3日だと思ったら300年・・・。時間の流れが違う次元の行ってしまったから仕方ないとはいえ、なんだか恩をあだで返されているような気がする」という少々ネガティブなイメージがあった。さらには「そういえば、『本当は残酷なグリム童話』的な本があったよなああ。まさにそれと同類?」とネガティブな批評がとどまるところを知らない状態だった。が、浅田氏は「食べ物」に目を付け、あれやこれやと面白おかしく(☜失礼)講評しているのだ。さすがは直木賞作家!と頭が下がる。息が長い作家はやはり目の付け所、発想力が違うなああと改めて感じる。浅田氏は元自衛官、アパレル業界、など様々な職業を経験しており、それが作品、発想力に生かされているのだろう。苦労・・・をあえてする必要はないけれど様々な経験が多角的視点、発想力を育てる役に立つことは言うまでもない。引きこもって読書ばかりせず少しは外の世界に目を向けようと自分で自分に言い聞かせるきっかけとなった。

2017/09/18 02:45

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夢を叶えること

「夢が叶う」ことは自他ともに本当の本当に嬉しいもの!!!数か月前に読者登録をさせていただき、その直後に偶然にもお目にかかることが出来たブロガーさん(使命を指名につなぐ響縁プロフィールライター 番藤芳江)。この度、夢を叶えられて最高に嬉しい!!!!知っている方、身近な方が夢を叶えることは嬉しいのみならずパワーをもらえるから。夢、やりたいことは人によってそれぞれ違うし、夢に対してのハードルの高さも違う・・・。Aさんにとっては「当たり前」のことでもBさんにとっては「難しい」ということは日常茶飯、ただ一番大切なことは「正確に、具体的に願うこと」という番藤様の言葉に集約されているような気がする。ちなみに自分は?おかげさまで具体的に「やってみたい!」と思っていた夢を夏に叶えた~(池田高校で研修会講師を務める)。さて、去年に本を出版し某分野で大活躍の知人は私にとっては「すごい業績、すごい人」なのだけど実はその方はまだラジオ出演をしたことがないらしく「ラジオに出てみたい。陰陽師さんはすごい」と先日言われた(※おそらく、夢を叶えるべくしてご自身で動き出していることだろう)。こちらとしては「え???本を出すことの方が断然難しい!」と思ったのでそのことを伝えた。というのもその方は自費出版等ではなく、出版社からオファーがあったのだ。逆にあちらからは「え?出版に興味があるの?」と突っ込まれてしまった・・・。ハイ、チャンスがあればとってもとっても興味あり~~~!それ以外にも色々とやってみたいことが多数。というわけで「正しく正しく具体的に具体的に」をモットーに日々精進することにしよう。具体的に頭の中に色々と計画はあるのだけど、まだ公表するほどのレベルではないのでまずは地道に準備してから告知予定っと。改めて、番藤様本当に本当におめでとうございます。ラジオ、聴きますね~。

2017/09/17 03:53

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古典を学ぶとは

昨日9月15日は元敬老の日。2002年に(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2003年(平成15年)からは9月の第三月曜日になった。今の若い子たちにとっては日付そのものよりも「敬老の日=9月の第三月曜日」のイメージが強いのだろうけれど、自分自身にとってはまだまだ9月15日のイメージが強い。それはともかくとして、中学・高校古文では「親孝行」についての話が数多く出てくる。例えば父娘が道中で虎に出くわしたところ、娘が「私は虎に食べられてもいいので、代わりに父を助けてほしい」と祈り天に祈りが通じたのか、虎は何もせずに黙って去っていったという話。これは子供が親を思う心が起こした奇跡で、似たような話が多い。むろん作り話だということは分かるけれど読んでいてほっこりと心が温まるのは自分だけか?また年配者の知恵によって難事を乗り越えるという話も数多く残っている。これらは儒教の影響が強いためだと思われるが、宗教云々は別として人間の生き方を示唆しており、古典を読むことによってそれを自然に学べるということは素晴らしいと思う。実は我々日本人は知らず知らず儒教から道徳的、倫理的な規範を授けられて社会生活を送っている。学生時代に先輩があんなに威張っていられたのも、会社では年功序列がいまだに幅を利かせているのも、親を老人ホームに入所させることに罪の意識を感じるのも、お仏壇に祭って祖先を供養するのも、元を糺せば儒教的倫理観に行き着く。むろんこういった思想の弊害(年功序列ゆえに能力がある人が活躍できないなど)もあり、徐々にそれらをなくそうという動きもあるけれど。話を戻すと「古典は古臭いし勉強しても仕方がない」という声を直に数多く聞かされたけれど「古典」を学ぶことは「生き方」を学ぶこと、しかも中学・高校程度の「古典」の場合は偏った思想とまではいかない、ちょうどいい具合の人間としてのあるべき姿を学べるのがいいなあと「敬老の日」を迎えるにあたって(今年は9月18日)ふと感じた。

2017/09/16 09:53

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「感謝」「謝罪」

「漢字の気持ち」(高橋正巳・伊藤ひとみ著)に「謝」という字について触れられている。要約すると【「謝」という字は心の負担をおろすという意味があり、ありがたい気持ちを伝えるには「感謝」、申し訳ない気持ちを伝えるには「謝罪」と、どちらも心の負担を下ろしたい時に使う言葉として同じ】とある。この意見には賛成すると同時に、使う側はもちろんのこと言葉を受け取る側にも「相手に一番言って欲しい一言」という点で「感謝」と「謝罪」は共通点があるように思う。つまり相手から「感謝」「謝罪」の言葉を受け取るだけで相手へのわだかまりなどが消えることも多い。例えば誰かのために一生懸命に行動した場合、たった一言「ありがとう」という言葉をもらうだけで苦労が吹っ飛ぶということはよくあること。金品が欲しいのではなく、たった一言「ありがとう」と言ってもらえるだけでいいと思えるのだ。代表的な行いとしては「子育て」が挙げられるだろう。子育て中の大半の人は「将来、子育てにかかったお金を返してもらおう」とは思っておらず子供たちが将来幸せになってくれたらそれが自分たちの幸せと感じる。そして子供たちが成人した時に、たった一言「育ててくれてありがとう」と言ってくれることがあったら、今までの苦労が報われるのだろう。また、誰かに物を壊された、けがをさせられた、裏切られた・・・という場合にはむろん弁償、治療費、慰謝料を払ってもらうべきだが、払ってもらえればそれでOKという態度をされると、たとえ満足いくような金額であったとしても被害者としてはモヤモヤが残る。金額的に大したことがないような子供のおもちゃなどであれば、弁償をしてもらう云々よりもたった一言「ごめんなさい」と言われるとそれで気持ちがスッとし、あと腐れなく相手と付き合える。つまり「感謝」「謝罪」は使う側、言ってもらう側共に心の負担を下ろす、軽くする言葉なのだ。だからこそ、きちんと「感謝」「謝罪」の言葉は口に出したいものだ。

2017/09/15 04:12

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「煮詰まる」とは

今日は珍しくブログに書くネタを思いつかず行き詰まっていたところ・・・ふと「煮詰まる」という言葉が頭に浮かんだ。今まさに自分が置かれている状況(行き詰まっていること)を一般的に「煮詰まる」「煮詰まった」という表現するケースをよく見かける。でも実はこれは誤用で「煮詰まる・煮詰まった」という表現には行き詰まった・壁にぶつかったというネガティブは意味はなく逆に結論が出る段階が近づいたというのが本来の意味。ある意味、今まさに自分は「行き詰まったこと」によって「煮詰まった」(ブログネタを思いつく☞結論が出る段階が近づいた)わけだが、なんだか書きながら混乱しつつある。さて、ある調査によると半分近くの人が「行き詰まった」という誤用の意味で解釈しており、実際に広辞苑など最近の辞書では「行き詰まる」という意味で使われているというケース紹介もされているらしい。ということは言い換えると正しい意味で使っても誤って使っても、本来の意味で相手に通じない可能性があるということになる。さらに厄介なのが正しい意味と間違った意味が「真逆」の意味を持つこと。国語塾の生徒達には語彙を増やすよう呼びかけ、慣用句や諺などを覚えたら極力日常生活や文章を書く時に使うように促しているけれど誤用されて使われる慣用句などに関しては慎重になった方がいいなあと思ってしまう。いわゆる誤用されやすい慣用句に関して、自分自身が正しい意味を知っているならば、あまりむやみには使えなくなる(悲しいことだけど)。あるいは相手を選んで(相手が正しい日本語を知っているという前提)で使う必要がある。いやはや言葉は時代とともに変化するから面白く、だからこそ難しい。逆に難しいからこそ奥が深くて面白い。こんな素敵な日本語、丁寧に使っていきたいものだ。

2017/09/14 05:06

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謙虚

かれこれ3年以上前に(ブログを書き始めた初期の頃)にも書いたけれど、平田篤胤(江戸時代の国学者)は、夢で本居宣長の弟子となった人だ。つまり宣長の没後2年目にして宣長のことを知り「夢の中ではあるが師弟の契りをしたのだから私は正真正銘、宣長先生の弟子だ」と主張するのだ。本当にそういった夢を見たのかそれともでっちあげかは本人しか分からないが、少なくとも篤胤の勉強熱心さは本物だったらしくその様子をあの世から宣長は嬉しく見ているだろうと勝手に想像している。その嬉しさとは「自分を師匠としてあがめてくれてる」ではなく「熱心に国学の勉強をしている様子」についてだ。先日から書いているように宣長は謙虚なタイプだったとうかがえるから・・・。篤胤の執筆する様子は、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ疲れが限界に来たら机にむかったまま寝て十分に寝ると再び起きまた書き続けるというものだったそうだ。こういう勉強熱心な人に「弟子にして下さい」と懇願されたり、「○○の弟子です」と公言するのはありだと思うけれど、逆はいかがか?とふと思った。数年以上前のことになるけれど某分野で活動している方が「自分は弟子が600人いる!」と公言した。「ん?どう見てもそんなにお弟子さんがいるようには見えないけれど・・・」と思いつつも「すごいですね!」と返しておいた。ちなみにその日はいわゆる芳名帳的なノートに住所、名前、連絡先、メールアドレスなどを記入したところ・・・それからというもの定期的にメルマガが届き始めた。「え??」と思いつつ何気に記事を読むとメルマガ読者が600名少々とか・・・。あ、これのことかああと納得。つまり「メルマガ読者≒自分の弟子」と公言しているというわけで、この瞬間に相手に対するリスペクトの気持ちが萎えてしまいしばらくしてから完全にお付き合いはしなくなった。何が言いたいか?実力がありつつも謙虚な人こそ魅力的で、高圧的な傲慢な態度の人はある分野の能力に優れていたとしても全く魅力的ではないなあということ、自戒を込めて。

2017/09/13 02:01

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お茶目な一面

昨日のブログで個人的に、江戸時代の国学者本居宣長が好きと書いたところ、彼が鈴コレクターであったとコメントを頂いた。そう、実は宣長氏は鈴コレクターで自宅に「鈴屋」という屋号をつけているくらい鈴を愛していた。鈴と言っても現代の人がカバンやカギにキーホルダーとしてぶら下げる小さくてかわいいものではなく、少々大きめのどっしりしたようなもの。医者であり、国学者であった宣長氏が鈴の音色に癒されていたのかなあと想像を巡らせるとなんだかほんわかした気持ちになる。さて、今手元に「文豪と暮らし~彼らが愛した物・食・場所~」(開発者編)という本があり、宣長氏に限らず文豪と呼ばれる人たちは皆それぞれ「愛した」対象があったと知ると面白い。真面目一辺倒ではなくお茶目な一面もあったんだなあと。例えば後年に「直木賞」という文学賞を菊池寛氏によって作られる、直木三十五本人は「飛行機搭乗回数国内3位が自慢の種」だったとか。東京大阪間のフライトにおける搭乗回数レコードホルダーの上位3位に入っており、大親友の菊池寛氏と飛行機をバックに映っている写真はまるでイタズラ坊主のような表情。自分自身は飛行機に乗るチャンスが多いけれど、ワクワクどころか面倒くさい、しんどい・・・という気持ちの方が先立つ。またお茶目な一面が著書からもうかがえる遠藤周作氏。敬虔なカトリック信者としての顔(作品)と狐狸庵山人としてのいたずら好きの顔を持つ彼は、実はもう一つの顔があった。それは・・・囲碁に対しては「宇宙規模の下手の横好き」だったそうだ。ここまで酷評?されるとはおかしくて笑いがこみ上げる。文豪のみならず身近な人(例えば職場の上司)にも意外なお茶目な一面があるかも?と観察することは良い退屈しのぎになるかも?!

2017/09/12 14:34

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文章から伝わるもの

古代の日本の貴族にとって和歌を上手に詠むことは出世条件の一つ。え?と思われるかもしれないが、なるほど現代でも就職や進学する際には作文、小論文、自己PR文、入学・就職後はレポート、企画書、報告書をいかに上手に魅力的に書けるかがその人自身への評価につながるという点では通じるものがあるだろう。中学生の古文ではしばしば「和歌を上手に詠んだことによって褒美や休暇をもらえた下級武士の話」「年貢を下げてほしいという内容を一休和尚が頓智を効かせて和歌に詠んだところ成功した」といった話などが出てくる。これらの古典作品を読むと分かるけれど、決して「技法」に頼りすぎてもダメ!ちょっとした工夫、ウィットにとんだ内容になっていることが大切で、これも今の時代に通じるだろう。先日も書いたけれど、数多くのブログを読ませてもらうと自ずと書き手のことが想像できる。それは学歴や職歴を取り外した、本来のその人らしさというのが自然とにじみ出ているようなもので、個人的には「謙虚さ」「素直さ」「上から目線でない」文章に魅力を感じる。たとえて言うならば国学者である本居宣長のような文章・・・。で、で、で、だからこそ自分はというと文体などなど意識して敢えて変わった内容や書き方にしている(これって、自分の文章が怪しいことへの言い訳?!笑)。普通に書いたらまるで自分自身を丸裸にされた状態になりそうだから。さて先日、知人に「段落分けしない、独特の書き方ってわざと?」と聞かれたので即座に「イエス」と答えたところ「なるほど~」と妙に納得された。うーんほめてくれたのだろうか?何はともあれ今も昔も「文章」はその人自身を表すということを意識して、言葉を丁寧に選びながら使いたいもの。

2017/09/11 13:23

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国語力を試される

国語に限らずいわゆる五科目では、国語力を試される問題が増えたなあと感じる。それは生徒との会話だったり国語以外の科目の先生のブログなどなどから感じる。例えば英語では今までだったら素直に「下線部を訳せ」だったのが、最近は、問「なぜマイクは○○のように感じたのですか?」答え「ケイトが描いた沢山の絵を見せてもらったから。」本文(ヒント)「ケイトがマイクに、自分が描いた沢山の絵を見せた。」とある。この違いは分かるだろうか?答えの主語は「マイクは」となるため「マイクは‥‥見せてもらった。」という受け身の文章になるけれど、本文中のヒントは文章の主語が「ケイト」になっているため述語は「見せた」となる。つまり本文と答えるべき文とでは主語が変わるため、受け身にする必要がある。単に「訳す」だけならばいとも簡単にできていた生徒でも、こういった国語力を試されるような問題が出ると一瞬ひるむ。先の問題では「ケイトがマイクに自分が描いた沢山の絵を見せたから」でも正解にはなるだろうけれど、一応「問」では「マイクは」となっているので最初の書き方の方がベターだろう。また、先日「しつこいようだけど、何を聞かれているか?をしっかりと把握すること。例えば数学でも合同を証明しろって言われてるのではなく、三角形ABCが二等辺三角形になることを証明する問題ならば、合同を証明してバンザーイ終わりではなく続きがあるよね。関数ではyの増加量を聞かれているのになぜか変化の割合を答えようとする子もいるし・・・」と具体例を挙げて生徒に説明したところ「そうなんです!数学の先生が全く同じことを言っていました。yの増加量を求める問題ではかなりの生徒が混乱するみたいです。」とのこと。国語を制すれば他科目も制する?!少なくとも国語力をつけることは生きていくうえでも不可欠なこと。コツコツ一歩ずつ進んでいきたいもの。

2017/09/10 00:30

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文章の資質

作家、阿川弘之氏が「志賀直哉の生活と芸術」という文章の中で次のように書いている。「人のものを読んで、直哉は時々、『その場面をはっきり頭に浮かべないで書いてるね』と不服を言った。少々極端な例だが、例えば某流行作家の風俗小説で、男と女が、線路をへだてた向うのプラットフォームとこちらのプラットフォームに立ち、別れの言葉を交わしている。かなりの大声を出さなくてはお互い聞き取れない状況であるにもかかわらず、作者は平気で、二人に普通の会話をさせている。こういう垂れ流しのような叙述は、自分の場合として考えたら到底我慢できないし、やれないたちであった。」これをたまたま今日読んだときに、昨日のブログで紹介したエピソードを思い出した。というよりも先日のエピソードがあったからこそ、本来ならスルーするであろう、この文章が目に留まったといった方がいいかもしれない。確かに志賀直哉の作品は描写が鮮明で、文豪たち(和辻哲郎、芥川龍之介)が志賀直哉を高く評価する理由がそのあたりにあるのかもしれない。文章の癖、書き方、資質といったものは千差万別だからこそ面白い!どれがいいか悪いかという絶対的な評価は存在せず、究極は個人的な好みか?個人的には志賀直哉の文体、資質は大好きで大学時代に専門科目で志賀直哉について勉強し、その授業だけは真面目に受けていた。さて、昔と違い現代は玄人・素人関係なく誰でもがブログ、フェイスブック、ツイッターなどで文章を発信でき、それらを読むことが出来る素晴らしい時代。どの方の文章にも個々人の人柄、カラーが現れており面白く、一切プロフィールを明かさずに個人的な意見を書いてあるブログは文章のみから書き手の資質を想像することになり、それが最近の楽しみの一つになっている。このブログは書き手の職業(国語教室主催)は公表されている上で、皆は読むわけだけれど、単なるハンドルネームだけで書いた文章だとどんなふうに皆の想像力を書きたてるのかなあと色々と考えるのも楽しい!

2017/09/09 05:07

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