[ログイン] 便利につかおう![新規会員登録] [パスワードを忘れた方へ]
掲載されているスポットは営業時間の変更や休業となる場合があります。イベントについては延期や中止となっている場合がありますのでご注意ください。
  • スポット情報へ
  • 090-4830-7204

小さな国語塾のつぶやき

さいしょくけんび(才色兼備)

昨日の記事に多くのコメントをいただき、ただただ感謝!中でも、聡明な女子高生blue様からとっても素敵なコメントをいただいた。かいつまんでい言うと彼女は「才色兼備」を「才色兼美」と書いて×になった経験があるとか・・・。なるほど~、個人的には「才色兼美」の方がしっくりとくる。「色々(多くの)才能と美を兼ねている」とは皆の望むところ、まさに憧れだろう。さて、本来の「才色兼備」は「色」を「色々…様々」ではなく「容姿、美貌」という意味で使われており、「才色」=「優れた才能と容姿」、兼備「両方を兼ね備えていること」となり女性への誉め言葉。自分の中で「才色兼備」と言えば「小野小町」を思い浮かべる。小野小町(おののこまち・生没年不明) は平安時代の歌人で世界三大美女の一人とい言われる人物。当時の美人と今の美人は基準が異なるので実際のところはよく分からないけれど。さて、小野小町と言えば次の歌が有名。「花の色は うつりにけりな いたづらに  わが身世にふる  ながめせしまに」(意味)桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまっ たなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。このように小野小町は「色」に「花の色」+「容姿、美貌」という意味を込めている。うーん、この歌を鑑賞するたびに「美人は美人なりの悩みがあったんだなああ…年老いて美貌が衰えることは美人にとってはそりゃああ酷だろうなあ」とつくづく感じる。さて、自分は?!潔く「ないものねだり」はしない(苦笑)けれど、最近は「菜食健備」「彩色兼備」といった感じか。見た目から「肉食系」と思われがちだが意外や意外、実は肉はほとんど食べない(単に好きではない)主義で、まさに菜食!そのおかげか化け物並みの健康体。さらには若いころはモノトーンで全身を固めていたけれど、今それをすると単なる怪しい魔法使いのおばあさん?!になりそうで怖いので、カラフルな色で全身を固めており、先日のラジオ出演の際には声しか電波にはのらないのだけどハロウィーンを意識して上はオレンジのカーディガン、下は紺地にオレンジのラインが入ったスカートといういでたちで一応カボチャ人間を意識したつもり・・・。あ、そういえばラジオパーソナリティのM様は本当に見た目も可愛くて才能があふれるまさに「才色兼備」と言える。国語のテストでは「才色兼備」と書かなくてはならないけれど、日常では自分なりの「さいしょくけんび」を楽しみたいもの。※昨日書いた記事なのだけれどアップするのを忘れていた・・・。後ほど今日の記事をアップ予定。

2017/11/08 04:11

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「五里霧中」を「夢中」で・・・

「先生、ごりむちゅうって書いて下さい。」と突然中一の生徒に言われたので「五里霧中」と書いたら「正解!」と、とっても喜ばれた。きっと「五里夢中」と書き間違えると期待されていた(?!)ようだけど、一応はプロですから・・・。「むちゅう」」=「夢中」と変換してしまうのは分かるような気がするけれど。ではどうすれば間違えずに済むか?一番いいのは面倒だけど一つ一つ辞書で由来などを調べて覚えること。(少なくとも自分が中学時代はそのような方法で勉強し、今でも覚える過程も含めて強く記憶に残っている)。先の「五里霧中」の由来は「後漢の張楷が五里にわたる霧を起こし、自分の姿をくらます道教の秘術『五里霧』を好んで使ったという、中国の『後漢書(張楷伝)』にある故事から。 五里四方にわたる霧の中に入ると方向を見失うことから、物事の様子が全くわからず、どうしていいか迷うことも意味するようになった」。この由来を知ると思わず脳内に「秘術」というキーワードが閃光し(だって、陰陽師ですから…笑)インプットされる。とはいえ、個々人によって興味の度合いが違い、インパクトの強さも違うので是が非でもイメージで覚えよう、というつもりはない。ある意味、「夢中」と混同しないように!と自分に言い聞かせて覚えたり、テストで間違えることによって「しまった!もう間違えないぞ」と思うことによって覚えることも可能だろう。ところで、実際問題として「五里霧中」の状態になったらどうするか?①霧が晴れるまで待つ②何とか打開策を見つけて「夢中」になって動く、の二点。安全なのは①だけど場合によっては時間切れになる可能性がある。時間切れになる場合はやはり②の方法をとらざるを得ない。自分自身はン十年前に、とある峠を車で走っているときにまさに「霧」で全く前が見えない状態に。ヘッドライトとつけても数メートル先の道路がかろうじて見えるだけ・・・かといってそこで止まったところで事態は好転しない。夜になり下手すると一夜を明かす?!後ろから別の車に追突される可能性もなくはない、携帯電話は通じない場所・・・結局「夢中」でなんとか霧の中を走りぬけたので今がある。今から思うと「峠は濃霧」という可能性を分かりつつ強引に峠入りした自分の無謀さが怖い。さて、受験生は進路についてまさに色々と迷う時期に差し掛かっているけれど、じっと動いていても事態は絶対に好転しない。「霧中」を「夢中」で突き進むのがベター。命を落とさない程度にファイト!

2017/11/06 17:35

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

疑うことを推奨?!

公立高校の試験は記述式が基本だけれど私立高校によってはマークシート形式を採用している学校もある。マークシートの場合、迷った場合はどれかにマークしておけば4択の場合25パーセントの確率で当たる。とはいえ、25パーセントの得点では到底合格点には及ばないわけであって・・・。ただし国語に限らずどの科目も4択ではたいてい2つはなんとか削除できるので正答率は50パーセントになる。そしてここからきちんと検証していけば100パーセントになるのだが、そうは問屋が卸さない。とにもかくも「これでもか~」というぐらいに紛らわしく作ってあるのが試験問題。先日、中学生全員に同じ題材を渡して解いてもらったところ・・・やはりというべきかほとんどの生徒たちが4択でミスをした。実はその問題の出来具合を試したかったために全員に同じ問題を解かせたのだ。本文中には「十万時間の単位で」とあり、紛らわしい選択肢では「十万時間で」と記載されており誤解答。正解の答えは本文内容を別の表現で言い換えており若干、抽象的な表現になっていた。が、先の誤解答の方はダイレクトに本文の表現がそっくりそのまま使われており、違うのは「単位」という言葉があるかないかだけ。生徒達は一分一秒を争って問題に果敢に取り組んでいるため、ぱっと見て「よし、これだ!」と張り切って選んでしまった。実は「十万時間」というと特定の時間だけ、「十万時間の単位」というと「十万時間」のみならず「二十万時間」「三十万時間」「四十万時間」・・・も存在するというわけなのでこれは間違いと伝えると皆「え~~~っ。ひどい・・・」と言いながらも「あ、そうかああ。」と納得していた。そこで生徒達には「出題者の意図を読んで。いかにも!と白々しくあったらおかしいと思わない?君たちのその素直さは素晴らしいけれど、うまい話には裏がある的にもう少し勇気をもって疑って!」と熱く熱く語った。なんだか「疑う」ことを推奨しているようで少々気が引けるけれど、世の中甘くない・・・のは事実。

2017/11/05 03:06

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「運根鈍」「鈍感力」

「運根鈍(うんこんどん)」という三字熟語がある。意味は「なにかに成功するためには、幸運(運)、根気(根)、鈍いくらいの粘り強さ(鈍)の3つが必要であるということ。」である。これはまさに真理をついており、この3つは横一列に並んでいるのではなく三角形のようなイメージが自分の中にはある。具体的には下記のような位置関係で、成功するために必要な「運」というのは「根気」「鈍いくらいの粘り強さ」があって初めてもたらせるものだと思うから。言い方を変えると「根気」+「鈍いぐらいの粘り強さ」=「運」と言った感じか。とはいえ、正直言って生まれもった「運」と言うべきものは悲しいかな、存在する。客観的に、経済的、健康、美貌、才能に恵まれた状態で生まれた人は最初から「運」がいいと言えるだろうし、逆の場合はいわゆる「不運」と言えるかもしれず、持って生まれてきた「運」というスタートは変えることが出来ない。でも、その後の生き方で「運」というのを「運んでくる」ことは出来ると信じている(信じたい)。さらに「運根鈍」の「鈍」に関して個人的には「鈍いぐらいの粘り強さ」のほかに「鈍感力」も付け加えたい。「鈍感力」は以前にもブログで紹介したけれど作家の故渡辺淳一氏が著した「鈍感力」がきっかけで流行した言葉。渡名氏は次のように述べている。「鈍感なのは素晴らしいことなんですよ。傷ついてもすぐに立ち直れるし、いろいろなことを言われてもすぐに忘れられる。私が言う『鈍感力』とは、どんな時もくよくよしないで、へこたれずに、物事を前向きに捉えていく力のことです。」と。「鈍感」≒ノロマで鈍くさいというイメージだけど、「鈍感」ではなく「鈍感」と名付けるところはさすがは渡辺氏だなあと、改めて北海道が生んだ大作家に対して敬意を払っている。氏の言う「鈍感力」を身に付けると生きやすくなり、「鈍感力」≒「鈍いぐらいの粘り強さ」とつながる。何かに挑戦しようとすると周囲から必ず「無理!辞めておけば?」という有難い助言がある、その助言に耳を傾けながらも「鈍感力」で助言?をスルーし「根気」「鈍いぐらいの粘り強さ」で「運」を引き寄せることが可能になるか?本来ならば生まれもった「運」があれば一番だよなああ~と言いたくなるけれど物事をなしとげた人は必ず「運根鈍」だということも、さすがに長く生きていると実感している。地道に一歩一歩。

 

                            運

 

2017/11/04 03:51

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

書き手の問題?

チャーミングで聡明だと思われる素敵な花ゆき様から「私はまだまだ陰陽師先生の記事を完全に読み解く力がありません。それ故に“国語力ってどうやったらつくの?”という素朴なギモンがあります。」というコメントをいただいた。花ゆき様のブログやコメントを読むとお分かりいただけるように、国語力がないどころか国語力がおありの方。大人に関していうならば国語力がある方、そして性格がよい方に限って「理解できない、国語力がない」とおっしゃるケースが多いように思う。それはなぜか?本来ならば読み手ではなく書き手に問題があるにもかかわらず「理解できないのは自分が国語力がないからだ」と勘違いなさるから。正直言ってこのブログは書き手の主観や事情で好きなように書いており、読み手全員に理解してもらえるようには書いていない、理解や共感して下さる方が一人でもいればラッキーというスタンス。つまり花ゆき様に限らず「なにこれ?意味不明・・・」という方々が多くいらっしゃるのはある意味当然、つまりそれは読み手の責任ではなく書き手の責任というわけ。ちなみに授業ではそういうわけにはいかない、いかに目の前の生徒たち全員が理解できるか?に重点を置き資料を作り、板書をし、テキストや例題を選んでいる。その反動からか?ブログでは難しそうな内容を書いているフリをしているだけ。さて、自分自身どうしても読んでも読んでも理解できないなああと思われる著書、著者が複数存在する。むろん理解しようと努力はするのだけど、著書のうち半分以上が「???」というタイプ・・・。でも、実は彼らも「きっとこの文章は理解されないだろうなあ」と思って書いている場合があるということを後日に本人の著書で知り、少し安心した。それが証拠に、大人向けの「分かる人だけ理解できたらいいや」的な著書とは逆に、中学生向けの書きおろし(教科書に掲載される文章)は超分かりやすい!型にきっちりとはまっている上に内容が素晴らしい。彼らこそ難解なことを分かりやすく説明できる、本物だと改めて確認したこともある。話は戻るけれど、「自分は国語力がない?」と思っている大人の方に対して申し上げたい。それはあなた(読み手)の責任ではなく書き手のの責任の場合もあるので、あまり気にしなくても大丈夫。事情が許すならば著者やブロガーに直接疑問を投げかけると良いということ。※個人的には、あまりにも難しい質問はご遠慮願いたいが(笑)

2017/11/03 17:07

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「食欲」「想像」の秋

北海道の気候は冷帯のため何十年も昔は、コメ栽培には不向きとされており「北海道米」=「やっかいどう米」と揶揄されていたこともある。が、今や収穫量、食味ランキング、売れ筋ランキングなどでは上位3位以内に位置している北海道米。特に「ゆめぴりか」「ななつぼし」という品種が特A評価で人気が高い。「秋田小町」という固有名詞的な銘柄や先に挙げた「ななつぼし」は「七つの星」という言葉からなんとなく名前に込められた思いをイメージができる。けれど「ゆめぴりか」は最初はよく分からず、そもそもあまり気に留めていなかった・・・。が、ある牧場で「ピリカ」という名前の馬がいたため、なぜその名前にしたのかを馬主さんに聞いたところ実はアイヌ語だと教えていただいた。「ピリカ」はアイヌ語で「美しい、良い、きれいだ、立派だ、豊かだ」という意味だそうだ。ちなみに「ゆめぴりか」という言葉は読んで字のごとく「ゆめ+ぴりか」で成程、本来ならば米作りに適さないとされていた土地で美味しいお米を作るという「ゆめ」をかなえたスーパーブランド品種なので「夢が豊かに詰まっている美味しいお米」といった願いが込められているのかあああと妙に感心。別にこんなことは知らなくても人生に何ら影響はない、が、知ることによって「ゆめぴりか」に対する愛着が違ってくるかなあと感じる。とはいえ・・・個人的には粘りが強い「ゆめぴりか」よりもあまり粘りが強くない「ななつぼし」の方が好きだけれど。ちなみに北海道の農産物は「ほし」「ゆめ」「天(北の空と言う意味)」という字が名前に用いらるこおが多く、地域性の好み?が色濃く反映されて面白い。例えば「ほしのゆめ(米)」「ゆめちから(小麦)」「満天きらり(そば)」などなど。またお米の新品種として青森県では「青天霹靂(せいてんのへきれき)」がある。「青天霹靂」とは「突然に起こった出来事」という意味で、なるほど「青森で突然に素晴らしい品種が出来た」という意味を込められているようだ。実際に調べてみたところ青森の「青」と北の空の「天」雷鳴の「霹靂(へきれき)」から命名とあった。農産物の新品種の名前にはそれぞれの願いがぎっしりと詰まっているので見るだけでも想像が広がり楽しい!食欲の秋+想像の秋といった日々。

2017/11/02 17:30

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「ランランラン」(北原白秋)

今、外は雨・・・。予報では一日中晴れだったけれど夕方からそれなりに激しく降り始めた。学校から直接お教室に来てくれた生徒は傘を持っていなかったため「濡れねずみ」状態で少々かわいそうだった・・・。むろん風邪ひかないようすぐにタオルで拭いて温かいへお教室へ。さて 「雨ふり」といえば北原白秋作詞の「雨雨、ふれふれ、かあさんが 蛇の目でおむかひうれしいな。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。♪」という歌が自然と頭の中に流れてくる。ピッチピッチ チャップチャップという擬音語は言うまでもなく雨が降る音。ランランランは色々な解釈ができると思うけれど、自分の中では雨の中、お母さんに蛇の目傘で迎えに来てもらって嬉しくてスキップしているようなイメージだった。が、が、が、「ランランラン」☞「降る降る」という意味のアイヌ語が語源だったのでは?という記事が昨日、十勝毎日新聞に掲載されており、興味深いので少し紹介する。【北原白秋(1885~1942)の童謡「雨ふり」がアイヌ神謡を参考に作詞されたとする説を、このほど発刊された「十勝小唄作詞九十周年記念誌」(十勝小唄振興保存会、十勝毎日新聞社制作)が取り上げている。(中略)白秋は創作活動では言葉を重視し「言葉の魔術師」と呼ばれ、アイヌ語を多数使った作品も。(中略)ただ「雨ふり」の創作の中でアイヌ神謡との接点が見つかっていない。(中略)当時、政府によるアイヌ民族の同化政策が行われおり、記念誌は「世の動きに配慮した白秋があえて控えた」としている。】(十勝毎日新聞 10月31日付)この記事を読んで「ランランラン」は実はアイヌ語で「降る降る」という意味だったことを知り、さすが「言葉の魔術師」北原白秋!「言葉」の重みを知り尽くしているからこそ「ランランラン」について細かいことは何も述べなかった「うーん、さすが」とうなっている。「言葉」は人を元気づけたり勇気づける最大のツールでもあると同時に人を傷つける最大のツールにもなりうるから。何か「言葉をかけた方がいい」場合と、あえて何も言わずにそっとそばにいるだけののほうがいい場合がある。逆に「何も言わない」ことによって相手を傷つけてしまい、「言葉をかける」ことこそが最大の愛情表現のこともあり、本当に「言葉」は使い方が難しく、また美しいものだと思う。「ランランラン」が持つ重みや意味を感じながらの雨、素敵・・・。

2017/11/01 19:00

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「あなただから大丈夫」

昨日の記事「自分だから大丈夫」は大人が見本を見せることが大切、といった素敵なコメントをいただいた。本当におっしゃる通りだと思う。と同時に年を取るのも悪くないなあと思わせくれるコメントだった。若い頃よりも年齢を重ねる方が当然経験値が上がり「自分だから大丈夫」という見本を見せることが出来、さらには「あなただから大丈夫」と言えるから。もちろん「あなただから大丈夫」という言葉は使う相手と場合を選ぶ必要があるけれど、言われる側としてはこれ以上の勇気づけられる言葉はないだろう。かれこれ何十年も前・・・学生時代に塾で教えていた頃の教え子の中三Tちゃん。塾だけでは物足りないとのことでこっそりと個別で家庭教師にも伺っていた。第一志望の私立に向けて毎回毎回深夜まで二人三脚で頑張っていたけれどなかなか成果が見えてこない、正直言って合格率は五分五分・・・。学校の先生からは当然、難色を示されすっかり落ち込んでいた彼女。そんな時、受験間際に「これだけやったんだし、Tちゃんなら絶対に大丈夫!私が言うんだから間違いない!」と伝えたところ一気に表情が明るくなり、結果としては無事に合格。高校入学後に高校の担任の先生から「実は入試かなりギリギリの成績だったんだよ。危険だった。」と言われたらしく「聞いて下さいよ~。実は私はギリギリで入学したそうなんですよ~。それが今や成績優秀だから先生にビックリされたんです。」と嬉しい報告をしてくれた。その際に「あ、そうでしょう?受かるとは信じていたけれど、おそらくギリギリだなあとふんでいたんだよね~。」と種明かし。「え?そうだったんですか?先生、ひどーーーい!(笑)。」と言われたことを懐かしく思い出した。彼女、全幅の信頼をおいてくれて「陰陽師先生が言うから絶対に大丈夫」と信じていたらしい。(おっと、責任重大!?)何はともあれ結果オーライ。何が言いたいか?自分自身でやるだけのことをやって「自分だから大丈夫」と思うこと、大人がそういう姿勢を若者に示すこと+「あなただから大丈夫」と信じてあげることが大切だということ。ちなみに自分自身は年齢が年齢なので最近は「自分だから大丈夫!分かるでしょう?誰だと思ってるの?」と自ら豪語し相手をビビらせている(苦笑)。

2017/10/31 02:57

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

「自分だから大丈夫」

今日の4時半ごろ、車内でNHKラジオを何気なく聞いていたところ次のような面白い内容が。「大阪にはあまり台風が上陸せず被害が少ない。そのことについて『大阪のおばちゃんたち』は自分たちのおかげ(自分たちのパワーで台風をそらせた)と言うらしい。」とのこと。パーソナリティの方々は冷静に「大阪のおばちゃんのおかげの訳がない!(地形などなどの偶然が絡んでいるだけだ)」とああだこうだと面白いトークが繰り広げられていた。相変わらず近場までの運転だったので途中でラジオを切って車外へ。さて、この放送を聞いて「そうそう!こういった考え方や発言って大事だよなああ。これらは長年の経験に基づく事実や経験から生み出された自信、自己肯定感といったようなもの!」と思った。去年の北海道を襲った台風では自宅近くが甚大な被害を被っており、テレビで町名や映像が流れたため早朝から電話が鳴りっぱなしでメールも続々。皆、「台風大丈夫だった?」とお見舞いの声をかけてくれたのだけれど、それに対して一言「全く影響なし。おかげさまで大丈夫!だって・・・相手を誰だを想っているわけ?陰陽師よ、お・ん・み・ょ・う・じ!台風を退けるのは当然のこと。」と思い切りうそぶいた(苦笑)。台風に関しては半分冗談だけれど、往々にして「自分だから大丈夫」と言うことは起こりうる。それは先にも書いたように長年の経験や努力に基づく自信からくるもの。さて、受験に関しても誰もが不安!絶対大丈夫と太鼓判を押されても当日にどんなどんでん返しが起こるか分からないのが受験で、合格発表を見るまでは誰もが不安。さらには多少(いや、かなり)無理して挑戦する場合は「不安」の度合いはマックスに。そんな時こそ「自分ならば大丈夫」と思えると強い。ただ、そのためには「あれだけやったんだから・・・・。最後の最後に追い込んで学力を上げたから!」と思えるぐらいの経験という裏打ちが必要。みんな頑張る時期、少々の頑張りでは「自分だから大丈夫」とは言えない、でもそう思えるように努力することは決して無駄にはならない。若い子たちよ、ファイト!

2017/10/30 17:47

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

あえて二兎を追う

「二兎を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)という諺がある。意味は「欲張って、同時に二つのことをやろうとすると、どちらも成功しないという例え。」2匹の野うさぎを同時につかまえようと追いかける者は結局1匹もつかまえることができない、ということから 生まれた諺。欲を出しすぎてあれもこれもと求めると結局何も得るものがない、ということで、 欲を出しすぎることを戒める言葉だ。確かに堅実に物事を成し遂げるときには「二兎を追う者・・・」の諺は正しい、が、きれいごとではなく多少のリスクを背負いながらでも、切羽詰まった状況では「二兎を追う」という選択肢も十分にありだと個人的には思っている。そんな中、いつもお邪魔させてもらっているブロガーさんが息子さんの高校受験への姿勢として「あえて二兎を追う」と書いてらっしゃり、思わず「そうこなくっちゃ!」と応援している。この時期になるとそろそろ進路を決めなくてはならず二者面談や三者面談が相次ぐ頃で・・・基本的に学校側としては「安全圏」を勧めるし、家庭の事情から是が非でも「近場で公立しか駄目」という場合はランクを下げるということは正攻法。でも、本人が行きたい学校があり、そこに挑戦したい!親たちはいろんな覚悟を持ったうえで子供を応援するという場合は「あえて二兎を追う」ことは素晴らしいと思う。なぜなら①挑戦して失敗したとしても後悔が少ない②頑張るモチベーションにつながる③「一挙両得」(一つの行為で、同時に二つの利益が得られること。)の可能性がゼロではないから。以上3点の理由から個人的には条件がそろえば「あえて二兎を追う」ことは大賛成だ。先に書いた「一挙両得」という言葉には「少ない労力で多くの利益を得る」という意味合いもあり、それは受験というケースには全く当てはまらず、そもそもが受験に対して「一挙両得」という言葉を使うこと自体が無理があるだろう。でも「二兎を・・・」に対しする意見としてあえて用いた。つまり少々の無理をしてでも「あえて二兎を追うことにより二兎とも得る」と言う可能性がなくはない(つまりは、可能性がある。)と言うことを伝えたいのだ。それは、勉強に限らず仕事、私生活においても当てはまり最初から「二兎を追うのはちょっと。。。。」とあきらめるのではなく「あえて二兎を追う」という姿勢が時には必要なのかなあと考えさせられた。

2017/10/29 16:19

コメントするには会員登録後、ログインが必要です

ようこそゲストさん
「プッシュ!」でまちを応援しよう!

「プッシュ!」ボタンを押すとあなたのおすすめのスポット、共感した情報としてトップページに表示され注目度があがります!

「プッシュ!」ボタンを押すと、とんたんが!?

ようこそゲストさん

このサービスをご利用になるにはログインする必要があります。

会員登録されている方はログインして下さい。

会員登録されていない方は新規会員登録(無料)を行って下さい。