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小さな国語塾のつぶやき

信じる心

「徒然草」第六十八段に次のような話がある。【筑紫(九州北部)に、なにがしの押領使という者がいたが、土大根をよろずにすぐれている薬といって長年、朝ごとに二つずつ焼いて食べていた。ある時、押領使の館の内の人が出払っている隙をはかって敵が襲って来た。その時、館の内に兵が二人出で来て命を惜しまず戦って敵を皆、追い返した。押領使はとても不思議に思って「日ごろ、ここにおられない人のように見受けられますが、いかなる方ですか」と質問した。その兵は「あなたが長年頼って毎朝召し上がっていた土大根でござる」と言って去っていった。深く信じていたからこそ、このような徳もあったのだろう】。また、「沙石集」には「藤のこぶ」という話が載っている。内容は【ある在家の人が山寺の僧を信じて、あらゆることを深く頼りにしていた。病気にでもなれば、薬なども何を服したらよいか尋ねていた。すると、この山寺の和尚は、医道の心得もないのに、すべての病に「藤のこぶを煎(せん)じて飲めば治る」と教えていた。在家の人がこれを信じて用いると、すべての病が癒(い)えぬということがなかった(病が癒えた)。ある時、馬を失ったので「どうしたら見つかりますか」と尋ねると、例の「藤のこぶを煎じて飲みなさい」と言うのであった。僧の話は納得できなかったが何か理由のあることであろうと信じ、藤のこぶを探した。しかし、あまりに取り尽くして近い所にはなかったので、少し遠い所の山のふもとを探し求めるうちに谷の辺りで、いなくなった馬を見つけた。これも僧を信じたおかげである。】個人的にこの二つの話が好きだ。むろん日常生活においては、一つの物事・人の言動のみを「盲信」することは怖いと思っているし、逆に他人様から盲信されるのも怖い。☜責任重大と言うか、そもそもがそんなにも盲信されるような立派な人間ではないという自覚があるから。では、なぜこの二つの話が好きか?その理由は「純粋に一つのことを信じる姿勢」と「正しい(であろう)ことを信じて精進(?)すると道が開ける」と思える、という2点から。とはいえ、「信じる」ことが出来る物や人ってなかなか見つからないし、見極めが難しい。でも最近こう思うのだ。「自分自身を信じることが出来るといいなああ~」と。どんなことがあっても「自分ならば大丈夫」と信じることが出来るようになったら本当の意味で「怖いものなし」かと。

2018/04/16 23:33

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