めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
「教えすぎ」「教えなさすぎ」…ともに✖
「考える」ことは生きていくうえで不可欠な行動で、いかにして「考えて自分で答えを出すか」という能力は絶対に必要だ。とはいえ、経験値が全くなかったり考えても考えても分からないことは「人に聞く」ことも大切だ。なぜなら自分一人で考えて解決できることばかりではない、むしろ解決できないことの方が多いから。逆に教える側としても「ここまでは教えるけれど、ここからは自力で」というバランスをとることが重要で、その匙加減は相手によって違ってくる。それゆえに「教える」という行為は奥が深く、一言で言うならば難しく、教える側と教えられる側のバランスがピッタリ来た時の快感は最高!その快感を味わうことが教えるというい仕事の醍醐味だ。さて、中学生向けのテキスト内に次のような文章があった。(以下引用)【これはつうやの常套手段である。彼女に何を尋ねても、素直に教えたということはない。(中略)もとより彼女のこういったのは少しでも保吉の教育に力を添えたいと思ったのであろう。彼もつうやの親切には感謝したいと思っている。が、彼女もこの言葉をもっとほんとうに知っていたとすれば、きっと昔ほど執拗に、何にでも「考えてご覧なさい」を繰り返す愚だけは免れたであろう。保吉は爾来三十年間、いろいろの問題を考えてみた。しかし何もわからないことのはあの賢いつうやと一しょに大溝の往来を歩いた時と少しも変ってはいないのである。・・・・】(「少年」より抜粋。)問が「下線部は、繰り返して考えさせるのがどうして愚かなことになるのか。最も適するものを次の中から一つ選び、その番号を書きなさい。」とあり、答えは「生きていくうえでは考えてもわからないことも多いのに、一つの答えにこだわって無理に考えさせるのは、結局、子供にとってためにならないこともあるから。」となる。正直言ってこれを読んだ瞬間に「わが意を得たり」で、基本的に小説を解くときには感情移入はしてはいけないというルールを百も承知ながら、「そうそう、分かるわ~~~。そうそう、そうなのよ。保吉に一票!」と心の中で言いながら答えを選んだ。むろん文章からヒントを探し、ほかの選択肢はどこが違うかを論理的に削るという行為もしたけれど・・・。このように国語の問題を解くというのは仕事でありながらも、時々「なるほど~」「へーっ、そうなんだ~」「そうそう。分かる分かる!」という文章を目にすることがあり、そのことも今の自分の仕事の醍醐味である。「考えることは大切。教えすぎることはダメ」だけれど同時に「教えなさすぎ」も「教えすぎる」と同じぐらに不毛なことだと改めて肝に銘じた文章だった。
2018/01/28 15:29
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