めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
「百鬼夜行」「魑魅魍魎」
先日、ブロ友の「花ゆき」様がとってもとっても興味深い記事の中では国語塾のことを取り上げて下さり、光栄であると同時に、もったいないような気分だ。その記事の中に「魑魅魍魎」「百鬼夜行」という四字熟語あったので紹介する。「魑魅魍魎」とは【人に悪いことをする、さまざまな化け物のこと。または、私欲を満たすために悪事を働く者たちのたとえ。「魑魅」は山林の精気から生じるとされる化け物。魍魎」は山川や木石などの自然物の精気から生じるとされる化け物のこと。(出典『春秋左氏伝』「宣公三年」】、「百鬼夜行」とは【深夜の町を鬼や妖怪などの異形の存在たちが徘徊すること、もしくはその集団の存在を指す言葉である。(ピクシブ百科事典より)】。これらの四字熟語、見るからに不気味…なぜなら「鬼」という漢字が多用されており、日本人にとっては「鬼」=「恐いもの」をいう文化が存在するため、漢字を見ただけでゾッとする。では、そもそもが「妖怪」や「鬼」は本当に存在するのか?と言われると個人的には「いない、けれど、間違いなく存在する」と言いたい。なんだか矛盾しているので少々注釈を。元々「妖怪」や「鬼」と言う言葉は「存在」をさす言葉ではなく「現象」をさすものだった。陰陽師が活躍したと言われる平安時代には当時では解明できないような病気や現象があり、それらをさして「もののけ」「鬼」「妖怪」の言葉が生まれた。つまり「もののけ」「鬼」「妖怪」は形ある目に見える、触れる存在ではなく現象なのだ(一部の特殊な能力を持った人を除く)。でも、目に見えないから「存在しない」ということにもならならず、具体例としては「言葉」!口から発する言葉は目には見えないけれど間違いなく存在し、影響力を持つ。目に見える世界だけがすべてではないと常日頃から思っている自分自身は「もののけ」「鬼」「妖怪」は間違いなく「存在する」と思う。そして感受性が強いタイプの人はそういった存在の気配をキャッチするのだろうと解釈している。逆にいうと「目に見える」「触れる」存在であれば対峙することができるけれど、「感じる存在」だからこそどのように対処してよいかが分からず、時と場合によっては途方に暮れる存在になりうるのだろう。こう書くとまるで「もののけ」「妖怪」「鬼」をはじめとする「目に見えない存在」≒「良くない存在」のようだけれど、そうとも限らないから面白い。花ゆき先生ご自身、「目に見えない存在」に助けられている☞「運がいい」と別の記事で書いてらっしゃるし、自分自身もそれは全くの同感。「目に見えない存在」なるもの?に助けてもらっているからこそ今がある。そうでなければ一体、何回あの世に行ってることやら(笑)。
2017/11/27 14:07
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