めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
人間の「器」
某中学校の2年生の国語授業では「平家物語(敦盛の最期)」に入ったらしい。当然?生徒は「平家物語、難しい~~」とぶつくさ言っており、その気持ちはよーくよーく分かる。でも今は分からなくても何十年か先に無常観や熊谷の直実の気持ちが分かる時が来るかもしれない、決して学んだとは無駄ではないよと心の中でエールを送っている。実際に自分がそうだったから。それは国語を教える仕事をしているからではなく、純粋に「今だから」「この年だから」平家物語の良さが分かる。ところで仕事柄「古典」を読むことが多く、「古典」を通して「器」について考えることがある。「器」とはその人自身の性質で「器の大きい人」といった風に使われるけれど、大きさはもちろんのこと「器」の種類がそれぞれある。例えば「平家物語(敦盛の最期)」に登場する直実は敵に情けをかけるような心持ち、さらには出家してしまう≠「侍の器」「大将の器」と言えるだろう。でも、人間としての器はとっても大きいと思う。また、中学国語に出題された題材として「身分の高い人が臣下を連れて狩りに行き、子鹿を仕留める。その子鹿を持って帰るように臣下に指示したが、臣下は母鹿が子鹿を呼ぶのをみてかわいそうになり小鹿を逃がす。すると指示に従わなかった罰として解雇される。でも1年後に身分の高い人が、動物の子供でも大切にするのだから信頼できる!と、自分の息子の教育係として臣下を再び採用する」という話がある。この身分の高い人はまさに「上に立つ人の器」だなあと納得する。各自の器を超えたことをしたり、器の形に合わないものを入れようとすることは大変というよりも理にかなっていないだろう。自由自在に大きさや形を変えることが出来るわけではなく大きさや形がある程度定まっているので、自分の器ってどんな感じかなあと想像すると楽しい秋。
2017/09/21 05:01
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