めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
「空気」を読むべし
「国語では自分の主観を入れてはいけないとは分かってるのですが、本文を読んでるときに『え?本当にそうかなあ?自分はそうは思わない』とか考えてしまうんです。」と某生徒がポロリと発言。「それはいいことなんだよ。作者の意見に対して分析すること自体は悪くないし、意見文や小論文を書くときにはそういった姿勢が大切になるよ。主観を持つのが悪いのではなく、解答に自分の主観を入れて答えるのがダメということだよ。」と伝えると納得してくれた。補足として「作者の意見が合ってるかどうかを判断するのではなく、作者は〇〇と主張しているという立場をとるべきで、言い換えるならば国語の設問はある意味出題者の意図を読むという感じかな。小論文などは作者の意見と向き合うことになるけれど。」と伝えた。とっても純粋でまっすぐなその生徒は「自分は人の顔色や心を読むのが一番苦手なんです・・・・。」とかなりネガティブオーラでのさらなる発言。思わず「私だって読めないよ。君や私だけではなく人の心を読める人のほうが少ないし、心を読める人がいるならばそれは特殊能力を持った人。それがいいかどうかはまた別問題。知らなくてもいいことを知ることになるんだよ。」と必死でフォローすると、ようやく笑顔になった。「人の心を読めない・・・。」と言っているが少なくともその生徒は「空気は読める」ので人が傷つくような発言などはむろんせず、以前に「自分はネガティブ80パーセントです・・・」なんて言っていたが「君は君のままが一番!」と伝えた。例えば複数人で、いわゆる有名店に食事に行ったとする。その時に「評判ほどには美味しいとは思わないなあ」という主観を持つのは否定されるべきことではないが、それを口に出す(国語の場合で言うならば、解答として書く)の避けるべきだということ(一般的には)。どんな発想でも自由だが、その発想を今現在、正直に公表してよいかどうかを冷静に判断する(空気を読む)ことが国語の解答する以外の日常生活でも要求されることだよなあと漠然と考えた。日常生活において、それはいわゆる礼儀だから。礼儀をわきまえてさえいれば人の心なんて読む必要はないし、読めなくて大いに結構!と思う今日この頃。
2017/05/29 03:11
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